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まず、かってExistenceに関った皆さんに、このページにたどり着いたことに敬意を表します。いまだ関心を持って頂けることをありがたく思う次第です。
さて、Existence閉店から、早いもので約6年もの月日が経ちました。その間、僕は一体何をしてきたのかーー。
思うにExistenceを通してやりたかったことは、ひとつのミニマムな社会の構築です。その拠り所を失った僕は、偶然にも地域社会にはまりました。それも、時を経るとともに、どっぷり、どっぷりと。
会社組織に属していない僕が地域社会にはまったのは、いわば必然でもありました。思いも寄らぬ歓迎を受け、居心地がよかったのも事実です。
とはいえ、いよいよ僕が本性を剥き出しにして付き合おうとすると、やはり微妙な隔たりを生むものです。元来、「本性を剥き出しにすることこそ表現である」と言わんばかりのスタイルしか知らない僕にとって、適度なバランスを取りながら人や社会とお付き合いすることは、どうも苦手なのです。ましてや、ここは京都、ファッキン・キョウト・シティ。
さらに僕は、どうも理解されにくい人間のようで、音楽の場ではなく、一般社会において「宇宙人」と言われたときにはもはや苦笑いするしかないのです。
まぁ、それはそれ。さて、僕が近頃思うのは、「もう一度戻りたい世界」があるということです。あるいは、あの頃、目指した世界。
先日、あることがきっかけで、シーボーズのような気分を味わいました。ウルトラマンに出てくる怪獣です。地球にやって来たくて来たわけではない悲しきシーボーズ。最期は宇宙の墓場へ還ります。いずれ、僕もExistenceへ還るでしょう。されど今はまだ、もうしばらくは生きたふり。イグの魂、百まで。
(2006.9 しぶたにちょくどう)
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「俺はいつだって本音で話す」
本当に本音で話すヤツは、わざわざそんな前置きを言いやしない。本音で話していることに気づかず、本音で話している。
「俺はいつだって裸だ」
俺にはそいつが裸のボディースーツを身にまとっているように見えてしょうがない。本当に裸のヤツは、裸でいることに気づかず、裸でいる。
生き方は様々。
「あんた、人生で攻めてみたこと、ないでしょ」
もちろん、本人はそれを否定する。けど、俺に言わせれば、そいつは自分のエリア内で攻めてみたことがあるだけのこと。相手の陣地にまで切り込み、攻め込んだ経験があれば、本音で話したり、裸でいることがときには他人を傷つけてしまうことがあると知っているはず。また、本音はときには自分をも傷つけてしまう。
そもそも本音って何だ。本音は一言で言い尽くせるものなのか。グジュグジュしたもの、一言では言い表せないものこそが本音ではないのか。
裸の王様ならぬ、裸になれぬ王様。彼は自分を傷つけたくなく、裸のボディスーツを身にまとっている。
(2008.1 しぶたにちょくどう)
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そろそろ何か書いたほうがよさそうだ。どこかに消えたとか、コンビニの制服着て深夜アルバイトしているなんて思われるのも癪だし。
ある業界の片隅で、好き勝手に生きている。思えば昔も片隅で好き勝手に生きていた。結局、スタンスは変わらない、変えようがない。
先日、業界の幹部が会いにやって来た。執行部に入ってほしいという。断る気はなかった。ただ、ほんの少しだけ本質をさらけ出したら、翌日、
「今回は他の人をあたってみます」
と連絡があった。昔も似たようなことがあったような気がする。
つまり、昔に近づきつつあるということか。歌が作れそうな生活が再び始まりそうな予感もする。些細なことだけど、明日は例のサングラスをかけて打ち合わせに行こう。
Have you ever seen the Existence?
(2009.6 しぶたにちょくどう)
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例えば、明日という悲観が訪れる。いや、今さら気取ってもしょうがない。明日は悲観だ。救いは、絶望には至っていないことか。
かといって、すがりたくなるほどの希望を欲しているわけでもない。いや、これもごまかしだ。すがれるものがあれば例えなんであろうとそれにすがるべきだ。明日のために。
そんなとき、一本の電話。だが、彼女の前では僕はいつも聞き役。最後に僕も元気かと尋ねてくれる。僕は元気か。いや、ちょっとしんどいんだ。
けど、彼女の前では言えない。彼女に比べたらに僕の抱えている状況なんてまだまだ甘いから。
雲の隙間から見える一筋の光明。晴間を期待した翌日、再び雲に覆われた現実。
それでも「生きていかなくちゃ」と彼女。一方、僕はおそらく、既にあきらめたものを持っている。悲しみのイグジスティンス。明日の朝、強風が吹き、キミは裸にされる。
(2009.10 しぶたにちょくどう)
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京都に移り住んで約15年。その間、金に困らなかったのは、ほんの2、3年かな。
「好きなことやってりゃぁ、そんなの当たり前」,、そう言ってくれるであろう人たちの顔が浮かぶ。実際、その通りだろう。
最近、再び「東京」も頭になくはない。身軽であれば、逆に西、あるいは南へと移っているかもしれない。
東京で「街」を意識したことはなかった。京都では否応なしに「街」(いや、京都の場合は「町」というべきか)を意識させられた。
さて、最近、「発信願望」が強くなってきたのはなぜだろう。果たして、あるのかないのか、復活の日。それでも僕らはみんな、生きている。なんとかね。
(2010.12 しぶたにちょくどう)
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31歳の時、東京から京都へ移り、ライブハウス「Existence」を始めた。好き勝手にやったあげく、わずか5年で店を畳んだ。その後、40歳になるまではモラトリアム。適当に生活していた。
当時、まだ適当に生活することができた。月10日ほど働くだけで、食っていくことができた。家族も養えた。マンションのローンも払えた。この話をすると、
「よっぽど景気がよかったんですね」
と、言われる。いや、違う。景気が悪かったから、月10日しか仕事がなかった。景気がよければ月20日でも毎日でも仕事があったはずだ。
ただ、今では考えられないが、当時は1日働けば5万ほどの金になった。だから食っていけた。例えば、ネットコンテンツ用に関西圏の温泉の取材に行っていた。1件の取材でギャラは3万6千円、1日2件こなすこともあり、しかも帰りにはお菓子や特産品などのお土産を貰えた。家へ帰ると、子供らが喜んだ。今ではありえない話だ。
月10日しか働いていなかったということは、月20日も遊べたということだ。週に5回はテニスをしていた。昼には子供が同じマンション内の友達のところへ遊びに行くのに付き合って、お母さんらと一緒にお茶したり、3時のおやつを食べていた。お酒の付き合いも断らなかった。夜、何時まででも付き合った。
もちろん、そんな生活、長くは続かないことはわかっていた。そこで、こっそり勉強をして、資格を取った。40歳になった頃には、予想通り仕事も減った。そして、今の事務所を開設した。
しかし、景気はなお悪い。仕事も少ない。1日5万の仕事なんてありゃしない。それでも、なんとか粘ってきた。店を閉めてから十数年間、たいしたことやってこなかったと思っていた。つまらない生活だったなと落ち込みもした。けど、先日部屋の整理をしていた際、子供が小さい頃に描いた絵や僕あての手紙、写真などを目にした。ふと、「けっこういい生活していたではないか」と思った。金はなかったけど、けっしてつまらない生活なんかではなかったんだなと。
僕は来年、過去を糧にしてまた勝負する。犠牲や悲しみを伴うが、それでもこの年になってまた勝負することできるということは、幸せなことだ。おう、俺の人生、話せばけっこう長いものになるじゃないか。
(2013.8 しぶたにちょくどう)